耳
おかしな事になった。
余談であるがおかしな事、と表現される限り、其の現象の理屈は理解されて居ないし、其の現象のみを指す名前は付いて居ない。
理屈がたとえ完全でなくとも理解されて居れば、そもそも其の理解の過程で名前が付くし、
ある程度日常の、もしくは非日常の事態であれば、こうこうこう言う、等と一々言う不便さを人は耐えない。
例えば、やたらと咳が出て喉が激痛を発し、動く度に頭を締め付けられる様な痛みを覚え、所で鼻水が止まらない。
此の、端から見れば悲しい哉、何とも珍妙な現象を、風邪と人は言う。
つまりはそう言う事で、嗚、判らないか、畜生。
ともあれ、人並みか其れ以上の経験と知識を有して居て、其れでも尚おかしな事、としか言えないのならば、
其れは本当に、単語にする必要性もない程度に荒唐無稽な、もしくは全くの未知の現象と言う事になる。
さて、現実逃避は此の位にして。
始まりも何もたった数分前だが、本日の寝起きは実に不快だった。
暴風と、耳元で騒いで居る様な鳥の大合唱。
聞こえて居ても意識しなければ知覚しない程度に慣れた筈の隣室の鼾は平生以上にけたたましく、
おまけに大概は其の隣室の住人によって掻き消される筈の其の他の音、
要するに近藤以外の隊士共が発する全ての雑音が、一つ一つ、やけに聴覚を刺激した。
「煩えェ!」
飛び起きて、先ず驚いたのは鳥なんぞ何処にも居ない事と、障子から差す朝光が実に穏やかなものであった事である。
では、何だ、此のまま死んだら死因に聴覚と書くしかない様な此の騒音は。
探る様に神経を張り、だが何しろ起き抜けなので少々何処か緩んだまま、
違和感に気付いた。
今、無意識ではあったが間違い無く己の意思で、
と言うよりどう言う事だ、少なくとも人間の髪の毛に筋肉と神経は通って居ない筈だが、
動かさなかったか、今。
嗚、全く嫌な予感がする。
例えば沖田がやけに機嫌の良い時、珍しく近藤が神妙な顔をして居る時、決まって此の感覚が襲って来る。
そして其の精度は信じるのに足る程度に高く、決まって碌な事にはならない。
だが結局は今迄通り、察知した時点で其れを回避するのは無駄でしかなく、
土方は己の頭部に指先で触れた。
何か生えて居る。
「狼じゃねえかなあ、」
「いや、犬だと思います。ほら、ドーベルマンとか。」
「ハイエナってなこんな耳してるんじゃねェですかね、」
全く失礼な話であるが、肉食獣しか候補に挙がらなかった。
まあ、自身でも、此れで草食動物を連想する奴が居たら正直に気持ち悪いと思うが、
死肉漁りは幾ら何でも言い過ぎでは無いだろうか。
己が無関係な場面で他人が言ったら鼻で笑う様な事を思う。
「残念だが、」
此のまま続けても話が進まない。
ズボンの尻に右手を突っ込み、悪戦苦闘して収めて来たものを引きずり出した。
頭部に生えた耳(認めたくは無いが)と同色の、細く長い尻尾。
「豹か。そう言えば黒いの居るもんな。」
「チーターですよ。多分何処かじゃ黒いんですよきっと。」
「ピューマだろィ、前に見たが面からしてそっくりだ。色なんてどうにでもならァ。」
実を言えば、気持ちも判らないでもない。
何より、出来ればこいつ等に混じって適当なネコ科を挙げる位置に居たい。
今から書店に走って聞いた事も無い様なネコ科を挙げてやるのに。
だが、矢張り話は進まず、
結局、憧れた位置も儚いものだった。
「猫か……。」
全員の、ヒットポイントかマジックポイントか其れとも別の大事な何かか、
其れが、音を立てて激減したのを実感した。
顛末は実に呆気無いもので、一晩寝たら跡形も無く消え失せて居た。
こうなると態々原因を探すのも馬鹿らしく、
天人が持ち込んだ新種の病原菌だの、此の間切り捨てたえいりあんの呪いだの様々な憶測もあったものの、
「愛玩動物みてえな面してても、あいつ等は鼠を最大限甚振る事に情熱を燃やす生き物だって事を忘れるなっつー大自然からのメッセージなんでしょうねィ。」
壮大な命題じゃねえですか、
若干遠くを見つめる沖田の妄言を否定出来た者は居なかった。
言い忘れたがハイエナの耳は全く違う。