北相屋諸々事 花豆



 笑って待って居るばかりで、



「嗚、居たね。」
 小さな頃は考えもしなかった。
 声変わりは済んで居たけれど、其れでも今とは随分異なる声が他の人と同じ様にお嬢さん、と呼んで居た。
 其れがいつの間にか慣れた風に名を口にして、気が付けばそんな風に己を呼ぶのは此の男と祖父、後は余り会わなくなった二親だけで、
 其れが特別な事なのだと自覚した時、随分惑わされた事を覚えて居る。
「どうか、」
 しましたか。
 余計な事を考えて妙な間が開いた。
 気取られなければ良いけれど。
 主人にすら隙を見せられない、可愛気の無い性質は今更。
 鉄面皮、と揶揄された事もある表情のまま尋ねると、
「どうもしないよ。」
 用が無ければ話し掛けもしないような亭主になった覚えは無いよ、と、恐らく本気で拗ねて居るから堪らない。
 知って居ます。
 ぽつり、答えると、「なら、良いよ。」と、解った様な顔で笑う。
 平生、こんなものだ。
 愛想のあの字も無い女と、其れを面白がるばかりの男と。
「手が開いたんならね、お出で。」
 返事も待たずに背を向ける。
 答えを知って居るからこその行動で、もし此方が断るつもりなら、端から察して聞いて来る。
 其れが嫌な男なのか好い男なのか、解るには未だ、何もかも浅い。
 わざと遅れ気味に後を追う。
 こんな風に呼ばれるなら、向かう先は決まって居る。
 其れなら、一人待って居る姿を一寸見る位、許されたって良い筈だ。
 梅雨時を前に庭の草木は今とばかりに栄を迎える。
 少し湿って涼しい風と、春とも夏とも似ない日差しが差し込んで、
 若旦那の次はご隠居か、と戯談われても口先で怒るばかりで、結局居ついて居るのも理解出来る。
 だって此れは。
 まるで此の男の為に用意したみたいで。
「ほら、お出で。」
 盆とお銚子を挟んだ隣を促され、はい、と其れに従う。
 池に物を投げ込んだ気分だ。
 そんな思考にも気付かずに、差し出された盃には仄かに香り、
「菊、ですか、」
「うん。」
 此の間ね、変り種の菊を見せて貰ったんだ。
 あれはあれで華やかなんだろうけど、どうも苦手だね。
 此れ位で丁度良いよ。
 お銚子に浮かぶ小振りな花に目を遣って、
「お望みでしたら、」
 構わないんですよ、他所にはもっと、
 言いかけて、ゆらり、中で沈みかけた花弁に眉を顰める。
 其の様子に、男も一緒になって目元を歪めた。
 失敗した。
 もっと巧い口が利けないものか、石でもあるまいし。
 思って、自嘲する。
 もしかしたら本当に石かも知れない。
 試した事すらないのだから、そうじゃないなんて言えない。
 嗚、嫌になる。



「嗚、もう。そうじゃないよ。」
 済まなかったね、言い方を間違えた。
 何て言ったら良いか解らないけれど、綺麗だったんだよ、其れ。
 小さいけれど、其の分しゃんと立って居て。
 君みたいじゃないか。



 知って居ます、解って居ます。
 待たせるばかりでいつ迄経っても女になり切れない事に一人で腹を立てて。
 八つ当たりなんです、
「御免なさい。」



 肩の上で笑うのが聞こえる。
 嗚、困ったね。
 平生通り、まるで困って居ない様な口調で。
「良かったじゃないか。こんな悠長な婿ね、私じゃなかったら早々居ないよ。」



 貴方が望むならきっと、石に花だって咲かせられるのに。